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高校で日本一を6度経験するも、29歳でJリーガーを引退。指導者としても模索の日々が続いた安永聡太郎は、そこから何を学び、なぜいまも挑戦を続けるのか。

高校で日本一を6度経験するも、29歳でJリーガーを引退。指導者としても模索の日々が続いた安永聡太郎は、そこから何を学び、なぜいまも挑戦を続けるのか。

リスキリングコーチング組織マネジメントグローバルセカンドキャリア

2026.01.14 公開

本日のゲスト

アンコールタイガーFC 監督 安永 聡太郎

設立:2013

事業内容:カンボジアのシェムリアップを本拠地とするカンボジア・リーグ1部のサッカークラブ

推薦理由 - Reason for recommendation
鈴木 伸明

鈴木 伸明

ビズメイツ株式会社 代表取締役社長

アンコールタイガーFC加藤代表とのご縁で昨年5月に現地を訪れた際、クラブの熱量と可能性を強く感じました。私は横浜出身で幼い頃からサッカーに親しんできましたが、横浜マリノスで活躍されていた姿が記憶にある安永さんが、カンボジアで監督に挑む決断をされたタイミングでフットサルをご一緒しました。異国の地で新たな挑戦を続けている姿には、大きな刺激を受けています。アンコールタイガーFCのさらなる躍進において、安永さんのリーダーシップが大きな力になると期待しています。ビズメイツとしても、英語学習を通じて引き続き応援してまいります。

はじめに

キャリアは、一直線に積み上がっていくもの———そんな前提が揺らぎつつある。転職や越境が一般化し、専門性の“賞味期限”も短くなるなかで、多くのビジネスパーソンが直面するのは「環境を変える決断」と「不安との向き合い方」だ。時に、これまでの道が望まぬかたちで“強制終了”する瞬間も訪れる。


安永聡太郎氏は、そのプロセスをサッカーという舞台で体現してきた人物だ。横浜マリノス(現 横浜F・マリノス)でプロのキャリアをスタートさせ、早くから海外に挑戦。日本人として初めて、スペインリーグ(当時2部)の公式戦でプレーした経験を持つ(※)。その後も複数クラブで選手として活躍し、現役引退後は指導者へとキャリアをシフトしていく。


さらに2025年からは、指導者として再び海を渡った。カンボジアのアンコールタイガーFCで監督に就任し、言語も文化も異なる環境でチームを率いている。


今回のインタビューでは、安永氏のキャリアを紐解きながら、その思考と実践をお聞きした。新しい環境に踏み出すときに何を根拠に意思決定してきたのか、どう不安を払拭してきたのか。選手引退というキャリアの節目をどう受け止め、プレイヤーから指導者へ移る過程でどう自分をモチベートしてきたのか。そして海外で監督を務めるいま、異なるバックグラウンドの選手たちをどうマネジメントしているのか。ThinkD単独でじっくりお話を伺った。


(※)1997-98シーズン、スペイン2部リーグ(セグンダ・ディビシオン)UEリェイダに所属。国内外の複数メディアおよび試合記録データベースで、当時日本人選手の公式戦出場例が確認されていないことから、日本人として初のスペインリーグ公式戦出場とされている。



サッカーエリートとしてJリーグデビュー

─────最初にこれまでの経歴について教えてください。


山口県の宇部市というところに生まれました。学校が終われば近所を駆け回る子どもでした。小学3年生のときに「何か運動してみれば?」と両親に言われ、始めたのがサッカーです。


当時は野球を選ぶ子どもが多かったのですが、通っていた小学校には「野球は4年生から」というルールがありました。サッカーであれば3年生でもやっていいということでしたし、『キャプテン翼』が流行っていたこともあってサッカーにしました。


最初は足でボールを扱うことが難しかったのですが、うまくできなかったことが練習でできるようになるのが本当に嬉しくて、どんどん熱中していきました。


それに、私の地元はサッカーが強い地域で、小学生のときも中学生のときも、サッカーを楽しみながら試合にも勝ち続けるという経験ができました。中学生時代には全国でも優勝できて、良い経験になりましたね。


高校では、サッカー王国と言われていた静岡県の清水商業に進みました。チームメイトにも恵まれ、主要な大会が年に4回(※)あるのですが、3年間で6度の日本一を経験することができました。そして、高校卒業後にJリーグの横浜マリノスに入団し、プロとしてのキャリアがスタートしました。


(※)主要大会:夏のインターハイ、秋の国体、冬の全国高校サッカー選手権、そして18歳以下の選手で競い合う全日本ユースサッカー選手権大会(現 高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会)。高校3年間で日本一になれるチャンスは12回ある。


─────なぜそこまで活躍できたと思いますか?


うまくなっていくプロセスを楽しめたからだと思います。最初はリフティングが続かなくて、50回もできませんでした。でも練習することで少しずつできるようになり、回数が増えていくと、自分でも楽しくなってきて「もっとできる」「あと少し」という感じで、どんどん上達していきました。


小さな成功体験の積み重ねを楽しめたことに加えて、活躍できた一番の理由は身体が強かったからだと思います。両親には本当に感謝しています。丈夫な体に生んでもらいましたし、小さい頃から体の成長も早かったので。


中学2年生で身長がいまと同じ178cmあって、筋トレをしていなくても腹筋が割れていました。そういうフィジカル的な強さがあったので、試合でも当たり負けしません。中学校や高校は同年代との勝負なので、身体の強さは大きなアドバンテージになっていたと思います。




プロになって味わった挫折。チャンスを求めてスペインへ

─────プロとしてデビューした後、成績はどうだったのでしょうか?


最初は「プロでも勝負できる」という感覚でした。ただ、プロになった1995年のシーズンは、リーグ戦28試合に出場して1点しか取れませんでした。


私の仕事はフォワードとして点を取ることなのに、プロでは自分よりも強い選手に身体を当てられ、ゴール前に入る頃には足が残っていませんでした。要は、シュートを決めるだけのパワーが残っていないということです。


それでも「試合に出られること」に満足して、点を取るための改善から目を背けていました。現実が苦しくなると、監督の采配のせいにしたり、「他の選手のフォローがない」と周囲に文句を言っていました。


チームを見てみると、同級生で同期入団の松田直樹がレギュラーを獲得していて、それが本当に悔しかった。「アイツは試合に出ているのに自分は出ていない」という現実がありながら、「高校では6度も日本一になったんだぞ」という下手なプライドにしがみついたりして、プロとしての最初のころはパッとしませんでしたね。


─────その後、1997年に日本人として初めてスペインリーグのピッチに立っています。そのときの経緯を教えてください。


1995年に20歳以下の選手で編成されたU-20日本代表に選ばれ、世界大会に出場しました。その際に試合をしたのがスペイン代表です。


結果は2対1で負けてしまったのですが、スコア以上に内容の差がすごくて、試合を通して7割〜8割ほどはスペインにボールを保持されていたと思います。「スペインはこんなに強いんだ!」と衝撃を受けて、いつかはスペインでプレーしてみたいと思っていました。


だから、横浜マリノスに入団するときも、海外に留学させてもらえるという条件を付けていたんです。最初の数年でチャンスがなければ、練習生のような扱いで海外にチャレンジできるというもので、私たちの世代ではそういうオプションをつけて契約している人がけっこういました。


そして、プロ3年目のとき、試合に出たり出なかったりが続いていた私は、シーズンの途中で「練習生じゃなくテスト生でいいから海外に挑戦したい」とクラブに申し出ました。テストに合格する保証はなかったのですが、当時はすでに21歳前後で、どのチームも練習生としては受け入れてくれないと思ったからです。


そして、テストをしているチームを探してもらい、合格したのがスペイン2部リーグのUEリェイダというチームです。


─────代表で力の差を見せつけられたスペインで、プロテストに合格したのはすごいですね。


もちろん自分なりに精一杯アピールしましたが、テストの時期が良かったことも大きいと思います。というのも、夏にテストがあったのですが、私は日本でシーズンを半分終えたところでした。毎日練習をしていたし、試合にも出ていました。一方で海外の選手はオフが終わった直後で、1ヶ月近くの休暇を終えてのテストでした。だから身体のキレが違いました。そういう意味では、運が良かったと言えるかもしれません。


テストは2週間と聞かされていて、私の他にスペイン人やアルゼンチン人、ブラジル人、アフリカ系の選手が参加していました。2日目の朝、食堂に行ったら荷物を持ってきている選手がいて「あれ?どこかに移動する予定だったっけ?」と思っていたら、隣の人がそっと「テストに落ちたので帰国するんだよ」と教えてくれました。帰国する選手の代わりに、すぐに新しいテスト生が入ってきて、すごく厳しいサバイバルゲームだと思いましたね。


幸いなことに私はテスト3日目で合格をもらい、プロ契約に至りました。一度日本に戻ってマリノスに報告に行ったのですが、チームメイトのスペイン選手から「お前はすごい!真のプロフェッショナルだ!」と褒めてもらえて、すごく嬉しかったことを覚えています。ちなみに彼らは、テストを受けにいく前は「やめておけ。絶対に通用しない。Jリーグでチャンスを待った方がいい」と言っていたのですが(笑)。


─────当時の日本代表はまだW杯に出場したこともなく、日本人が海外でプロ契約というのはかなり珍しかったのではないでしょうか?


おっしゃる通りで、かなり珍しかったと思います。私の入団会見では、なぜか柔道着を着せられ、インタビュアーの女性に向かって空手の正拳突きをさせられました。いま思えば笑い話ですが、それが当時のスペインでの日本のイメージだったのでしょう。


チームの本拠地であるリェイダの街でも、日本人は珍しかったと思います。チャイニーズレストランはありましたが、アジア人はほとんど見かけませんでした。もしかしたら、日本人は私だけだったかもしれません。


─────まさに未知の環境への挑戦だったと思います。不安はなかったのでしょうか?日本でプロサッカー選手としてキャリアを重ねる選択もできたと思うのですが。


もともと私は、誰かの後ろを歩くことが苦手な性格で、すでにある道よりも前例のない場所に飛び込むほうがワクワクするタイプだと思っています。


生まれ育った山口県を出て静岡県の清水商業に進んだときも、スペイン挑戦も同じです。これまでと異なる環境に馴染めるかはもちろん、言葉や食事への不安はありましたし、「やめておけ」と言われることもありました。それでも、日本に残ってチャンスを待つより、まだ日本人がいないスペインで挑戦する方が面白いと感じました。


まわりのアドバイスは非常にありがたいことだと思っています。でも最後は、自分が本当にやりたいと思える道を選びました。




現役を引退。自分と向き合い続けた日々

─────1998年にスペインから帰国し、国内の複数チームでプレーした後、再びスペインへ挑戦。そして2005年、29歳のときに日本のチームで現役を終えられています。


選手としてプレーした1995年から2005年を振り返ってみると、25歳を過ぎたあたりから試合に出る機会はどんどん減っていきました。


その理由を自分なりに考えてみると、努力が足りなかったという結論に行き着きます。ケガをしがちだったということもありますが、フィジカルで勝負をするタイプなのに無理が効かなくなり、球際で粘れなくなっていました。それなのに、技術を磨く努力ができなかった。これまでの貯金でどうにかしようとしてしまい、変わることから逃げてしまいました


何よりも、うまくいっていない自分を認めてやれなかった。目を背けたくなる「うまくいっていない安永聡太郎」をちゃんと見つめて、受け入れて、そこから「じゃあ、どうしようか?」を考えなくちゃいけないのに、当時の私はそれができていませんでした。


一方でチームには、中村俊輔選手など、次から次に新しい才能が入ってきます。それでもチーム内の競争に勝つために、全体のバランスを見ながら自分の強みを進化させていける選手も多くいます。でも私は、なかなか変わることができませんでした。そのため、フィジカルを活かす局面でピンポイントに起用されることが多く、最後の4〜5年は途中出場がほとんどでした。


29歳で現役を引退したのですが、選手としてサッカーができない悲しみとか喪失感といったものはあまり感じませんでした。「こんなものだろう」と、自分に対する諦めの気持ちがあったからだと思います。


ただ、不思議なもので、表向きは何ともなくても、身体が勝手に反応しました。これまで情熱を燃やしていたサッカーがなくなったので、魂が抜けたみたいになってしまい、引退してからの半年で2回も肺炎になってしまいました。なかなか熱が下がらなくて、本当に苦しかったです。


なぜ体調を崩してしまったのかを考えたときに、自分の中に盛り上がるものがないからだと思いました。これまでは「試合でゴールを決めたい!」とか「試合に出たい!」という強い思いがありました。でも、辞めたばかりの私には何もなかった。このギャップに、身体が素直に反応したのだと思います。


─────そこから育成や解説、そして指導者の道に進まれるわけですね。


そうですね。もともとは育成を手伝っていたのですが、片手間なところがあったので、ちゃんと向き合ってみようと思いました。あとは衛星放送の海外サッカー中継で解説に呼んでもらえるようになり、スペインでプレーしていたときのことを交えながら取り組んでいました。


印象的だったのは、育成の文脈で日本サッカー協会の「こころのプロジェクト」(※)に関わったことです。


(※)JFAこころのプロジェクト:「DREAM 〜夢があるから強くなる〜 」をスローガンに、サッカー界がひとつになり、学校教育の現場と力を合わせて子どもの心の教育に貢献するプロジェクト。


全国をまわり、たくさんの子どもたちに会って、いろんな話をするのですが、純粋にとても楽しかったんです。サッカー以外のスポーツからも元選手をお呼びして、講師としてその人の人生について話してもらうこともあり、とても勉強になりました。


ビジネスパーソンも同じだと思いますが、順調にキャリアを積んでいるように見える人でも、その裏側にはいろんな苦労や悩みがあって、それを乗り越えたからこそ今がある。そういった「人の歴史」を、水泳や陸上、野球などの元選手が話してくださるんです。


自分の中でいろんなことが言語化され、整理され、なおかつ引き出しに収められるようになっていきました。それ以来、サッカー解説でも言葉のチョイスや表現が豊かになった感覚があり、少しずつ変わっていく自分を感じられるようになりました


そして、引退してから10年くらい経ったころ、改めて自分がやりたいことは何かを考えました。このまま「こころのプロジェクト」に関わり続けるのか。それとも、もう一度勝負の世界に戻るのか。


熟考した結果、「こころのプロジェクト」が全国に浸透していたこともあり、再び勝負の世界に戻ろうと決めました。胃がキリキリする日々ですが、勝つか負けるかに全力でこだわりたい。もう一度、そういう毎日を過ごしたいと思いました。


そこから指導者になるための勉強を始め、2014年に日本サッカー協会が公認するProライセンスを取得しました。2016年4月には、CPサッカーという脳性まひ者7人制サッカーの日本代表監督になりましたし、同じ年の8月にはSC相模原の監督にも就任しています。


指導者として海外へ。カンボジアでの新しい挑戦

─────指導者としてのキャリアをスタートさせ、2025年7月にはカンボジア・リーグ1部のアンコールタイガーFC監督に就任されています。どのようなきっかけがあったのでしょうか?


きっかけは朝サッカーです。経営者の方や元サッカー選手など、いろんな人が朝に集まってサッカーをする会があるのですが、たまたまお誘いをいただいて参加しました。そこで出会ったのが、アンコールタイガーFCのオーナーである加藤代表です。加藤さんからは、カンボジアのサッカーについていろいろと教えていただきました。


順を追ってお伝えすると、SC相模原の監督を辞任した2017年以降、6年ほど育成世代の指導をしていました。そこで経験を積んだ当時の私には選択肢がふたつありました。ひとつがJリーグの監督です。ただ、道のりは長くて、コーチとしてクラブに入り直し、そこから監督のイスが空くのを待つというやり方です。私の他にも順番待ちをしている人がたくさんいるので、チャンスを伺いながらじっくりと待ち続ける必要がありました。


もうひとつの選択肢は、海外チームの監督です。日本を出て東南アジアに行くというもので、個人的にはタイやベトナム、マレーシア、インドネシアをイメージしていました。どちらの道に進もうかを考えているときに朝サッカーで出会ったのが加藤さんです。2024年の夏だったと思います。


その半年後、再び加藤さんにお会いしたときに、「チームをもう一段上のステップに引き上げたくて、良い指導者を探しています。安永さん、いかがですか?」とお誘いをいただきました。ありがたいお誘いでしたが、カンボジアで監督をやることは想定しておらず、どうしようかなと迷ってしまったのが正直なところです。


─────決め手は何だったのでしょうか?


「通訳はつけないので、自分で英語を勉強して、その上で勝てるチームにして欲しいです」と言われたことです。「チームの共通語は英語ですから、安永さんも英語でお願いします」ということでした。


それを聞いて、すごく興奮しました。もちろん、そのときは英語がまったくできませんでした。でも、もうすぐ50歳になろうとしている自分が、ゼロから英語を勉強し、英語での指導を通じてカンボジアでチームを強くすることができたら、それってすごいことだ!と思いました。やったことがないことに挑戦している自分をイメージすると、すごくワクワクしたんです。


「通訳をつけるから日本語で大丈夫です」と言われていたら、引き受けていなかったかもしれません。それくらい、「よっしゃ!やってやろう!」と気持ちが盛り上がりました。


スペイン語はなんとなく理解できるのですが、英語は中学生で勉強しなくなったので本当にわからない状態でした。不安もありましたが、上達していくプロセスを想像したら楽しみのほうが大きくなって、「どうせやるなら楽しんじゃおう」と引き受けることにしました。


─────ちなみに、どうやって英語を身につけたのでしょうか?


これもご縁なのですが、元サッカー選手や経営者の方々とフットサルをしたことがありました。参加者の中に、ビズメイツ株式会社の社長である鈴木伸明さんがいらっしゃって、それがきっかけで、ビズメイツさんのサポートを受けながら英語学習に取り組んでいます。


ビズメイツはビジネス特化型のオンライン英会話サービスを提供している会社で、「学びが挑戦を支え、挑戦が成長を生む」という考え方を大切にされているそうです。また「もっと多くのビジネスパーソンが世界で活躍するために」というミッションを掲げていて、私の挑戦と親和性が高く、サポートしていただけることになりました。


─────英語学習の進捗はいかがですか?


いまのところすごく良いです。というのも、オンラインで学習したことをすぐに実践する機会があるからです。


サッカー指導では、練習のメニューは月単位で大まかな計画を立てています。月間のメニューを消化するために、週次や日次に落とし込んでいき、毎日の練習で選手に何を伝えるのかという言葉のメインターゲットを決めています。


スムーズに会話をするのはまだ難しいのですが、カンボジア人にとっても英語は第二言語なので、お互いに手探り状態でやり取りをしています。ただ、「難しい表現よりも、まずはシンプルな単語をつなげることが大切」とアドバイスをもらっていて、実際にその通りだと感じたので、まずは決めたメインターゲットをズラさず、できるだけシンプルに何度も言葉にすることを心がけています。


─────ビズメイツ社からはどのようなサポートを受けられるのでしょうか?


外国人の先生によるオンライン英会話レッスンに加えて、日本人の専属コーチによるコーチングも受けています。英会話レッスンは1コマ25分で、毎日2レッスンを受けていて、コーチとは週に1回の振り返りでいまの調子を報告したり、相談をしたりしています。また、ビズメイツの学習アプリも活用しています。


最初に少し戸惑ったのは、ビジネス英会話がベースなので、サッカーとは直接関係ないシチュエーションが出てくる点でした。この前は、おそらく会議を想定した円グラフの営業成績を英語で説明するレッスンがあり、「これはさすがに使わないだろうな」と思いながら練習していました(笑)。


ただ、先生やコーチが私の状況をよく理解してくれて、最近では「このテーマはサッカーの指導にほとんど関係ないから、次に行きましょう」という感じでかなり柔軟に対応してもらっています。


ビズメイツのレッスンで特にありがたいと感じているのは、いま自分に本当に必要な英語を教えてもらえるよう、内容をカスタマイズできる点です。私はサッカー指導で使う英語表現を中心に学んでいますが、もともとはビジネスパーソンが仕事で必要とするシーンを想定した教材をベースにしながら、自分の状況に置き換えて進めてもらっています。


私からは、「今度の練習で伝えたいことはこれなのですが、どう表現すればいいですか?」といった形で相談させてもらうことも多く、すぐに現場で使える表現を教えてもらえるのが助かっています。ただ、長文で会話することはまだ難しいですし、長く話すと何がポイントかわからなくなるので、意識しているのはとにかくターゲットを逃さないことです。練習が始まる前には、「Today's training purpose is…」とその日の目的をシンプルに伝え、それ以外のことは言わないようにしています。


─────英語以外に、海外でチームをまとめるために気をつけたことは何でしょうか?


それぞれの選手をちゃんと見ることですね。選手としてスペインに行ったときとは違い、カンボジアでは監督としてみんなを受け止めて、チームをまとめ上げていく立場です。そのため、最初の1ヶ月は一人ひとりの選手を理解するためにとにかく時間を使いました。


アンコールタイガーFCにはカンボジア人以外の選手もいます。日本人やブラジル人、オランダ人、アフリカ系出身でカンボジアに帰化した選手もいます。そのため、特に気をつけたのは宗教です。やはり軽はずみなことは言えませんから、どのようなバックグラウンドなのか最初に確認しました。


また、チームとしてのルールを設定する際には、現地のカルチャーを理解することが重要です。だから、カンボジアの文化や習慣を知った上で、チームの決まりごとをつくっていこうと考えました。


たとえばプロのアスリートであれば毎日の食事にも気をつけた方が良いのですが、国が違えば食事に関する文化も異なります。確認してみると、カンボジアでは家で朝食をとる習慣があまりないそうで、屋台で食べるということでした。お粥系のさっぱりしたものが多いということだったので、それであれば変える必要がありません。


しかし、選手を見ていると、みんな練習の直前にも食事をしていました。それだと身体がスムーズに動かないので、すぐにコーチを呼んで「チームのルールに入れたいけれど、大丈夫?」と確認しました。「ルールにしてもOK」ということだったので、「練習前の食事は禁止」「どうしても食べたい場合は練習の1時間前に済ませること。ただし1時間前に食べて良いのはバナナのみ」というルールにしました。


─────各自のバックグラウンドや現地の文化を知ることは、マネジメントの土台を固めるために非常に重要だと思います。その上で、チームを強くするためにはどのようなことを大切にしていらっしゃいますか?


私がよく使っているのは「Shared understanding」という言葉です。これは「相互理解」とか「共通理解」という意味ですが、選手同士はもちろんのこと、私が選手のことを理解する、そして選手にも私のことを理解してもらう。これが非常に大切だと考えています。


私のことを理解してもらうときは、言葉で伝えることが難しいので身振り手振りに加えて、声や表情も使って伝えられるようにしています。たとえば私は、豊富な運動量と献身的な動きでみんながお互いに貢献し合うチームをつくりたいと考えています。いわゆる「ハードワークができるチーム」です。そういうチームを目指しているので、手を抜いている選手を見ると大声で叱り飛ばすようにしています。


カンボジアのサッカーは、ヨーロッパや南米からすればレベルが低く、まさにこれから伸びていく段階です。そんなカンボジアのチームにいる助っ人枠の外国人選手からは、たまに「自分たちはローカルの選手よりも格上だ」という驕りを感じることがあります。カンボジアの選手も、「外国人選手には敵わない」と決めつけているところがあります。私はこれが気に入らない(笑)。


だから、助っ人の外国人選手が全力でプレーしていなかったときに、呼びつけて、叱り飛ばしたんです。「なぜ全力でやらない?手を抜くならこのチームからいますぐ出ていけ!それぞれ能力が違うから全員に同じことをやれとは言わない。でもチームとして守るべき最低限のベースがある。そのベースを決めるのは監督である俺だ!」という感じで、ワーッと大声で。そしたら、ローカルの選手が「あの監督は外国人選手を叱り飛ばしたぞ」と驚いていて(笑)。


それ以来、外国人選手は手を抜かなくなりました。ローカルの選手も「監督が決めたベースを超えられたらチャンスがあるかもしれない」と、より一生懸命になりました。私がやりたいサッカーを伝えられたと思いますし、私のキャラクターも理解してもらえたと思います。それに、チームに良い競争が生まれるきっかけにもなりました。


他に大切にしているのは、加点式でのコミュニケーションです。私は常に、「いいぞ!それがお前の良さだ」とか「そのプレーを続けてくれ」と言っています。練習のときは「さっきの良いプレーの回数を増やすためにこの練習をしてるんだ。だからもっと集中しろ。絶対にいまよりもできるようになるから!」という感じで声をかけるようにしています。


サッカーはチームで勝負するスポーツですし、チームには攻める人もいれば守る人もいます。全員が一律で同じことをする必要はなくて、それぞれが自分の強みを発揮しながら役割を果たせれば良いと思っているからです。


だから、選手に要求するときも、強みや役割の違いを明確にした上で伝えるようにしています。たとえば走力が高い選手には、「常にボールを追いかけるのがお前の仕事だ。だから、50mを全力で何本も往復しろ。お前はそれができるから。できるのにやらないのは認めない」と伝えます。


すると、他の選手にも同じ要求をしろと言い返してくることがあります。そしたら「あいつはお前のように何本も全力ダッシュはできない。その代わり、ヘディングスキルと身体の強さがある。だからあいつには、試合中に100回飛んで高いボールを競り合ってもらう。100回は飛べないけど、50mの全力ダッシュができることがお前の強みだ。だから頼んだぞ」という感じです。


このやり方でチームづくりを進めてきて、3位(※)につけています。2年前が11チーム中で最下位、昨年が6位だったので、いまのところ健闘していると思います。


(※)カンボジア・リーグ1部 2025-26シーズン 第13節終了時点での順位


一番の目標は勝ち点3を取ること。そのためにチームとして大切にしたいのが「Never Give Up」のマインドで、どんなシチュエーションになっても諦めないことがタイガースタイル。これを監督就任以来ずっと言い続けてきました。


英語学習も、バックグラウンドや文化の理解も、「Shared understanding」も、加点式のコミュニケーションも、すべては試合に勝つための手段です。これらがうまく機能し始めている気がしていて、少なからず手応えを感じていますね。




指導者として直面した壁、指導者としての夢

─────言葉も文化も違うカンボジアで監督に就任されて、1年目から結果を出せているのはなぜだと思いますか?


SC相模原の監督をした経験が活きているのだと思います。2016年に監督に就任した当初、私は4-3-3のシステムを軸にチームづくりを進めていきました。少し専門的になりますが、攻撃的で現代的と言われることが多いシステムで、自分なりに「これが正解だ」という仮説を持っていました。


ところが、結果は出ず、チームは下位に低迷しました。すると、私も自信を失なっていき、選手同士の会話や練習中の反応が気になるようになり、練習の目的を絞れなくなっていきました。


いろいろなメニューを試し、最後は言葉で取り繕うことが増えました。選手には「目的が大事だから、常に目的を意識して」みたいなことを言っていましたが、目的が明確な練習になっていませんでした。練習でちゃんとできていないのに、それが試合で出せるかというと絶対に無理です。この悪循環から抜け出せず、精神的にも追い込まれていき、4つも円形脱毛症ができてしまいました。


2017年もクラブは契約を更新してくれたのですが、チームを勝たせることができず、身体にも異変が出ていたので、シーズンが半分終わったタイミングで「今年で辞めます」と伝えました。


選手には、「これまで俺のやり方に付き合ってくれて本当にありがとう」と感謝を伝えた上で、私のやりたいサッカーではなく選手が最も力を発揮できるサッカーに変えようと決めました。


システムを4-4-2に変え、練習もあれこれと手をつけるのではなく、基本的なメニューを積み上げていく方式に変えました。すると、そこからのラスト10試合で負けたのは1試合だけ。あとは勝つか引き分けで、チームは生まれ変わったんです。


ピッチ上で迷いなく走り回っている選手を見て、「俺はこれまで何をやってたんだろう」と思いました。自分がやりたいことを選手に押し付けて、やりたい理由もちゃんと言語化できず、しかも結果につながっていなかった。選手のみんなからすれば、すごく苦しかったと思います。


各自の強みを活かすようにしたら、チームは生まれ変わりました。結果が出ているから監督としてはもちろん嬉しいのですが、それ以上にすごく心が痛みました。結果が出れば出るほど、痛かった。


この経験があったから、カンボジアでは同じ失敗をしないように、いろいろと考えて動けているのだと思います。同じような辛い思いはしたくないですし、円形脱毛症になるのも嫌ですから(笑)。


─────最後の質問です。指導者としての目標を教えてください。


東南アジアのどこかの国の代表監督として、いつかW杯に出たいと思っています。


もちろん簡単ではなくて、どう考えても10年以上かかると思います。たとえばカンボジアであれば、カンボジア・リーグ全体のレベルをもっともっと上げていかなければいけないですし、優秀な世代を育て続けるために下部組織を充実させる必要もあります。育成や指導を担当するスタッフも増やさないといけないですし、カンボジアのサッカー協会がいまより多くのお金をかけることも大事だと思います。


ただ、2026年のW杯アメリカ・カナダ・メキシコ大会からは、本大会の出場国数がこれまでの32カ国から48カ国に拡大しました。アジア枠も「4.5枠」から「8.5枠」に増えました。これは、W杯に出場したことがない東南アジアの国からすれば大きなチャンスです。


東南アジアで言えば、タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシアがリードしていて、カンボジアが追いかけている状況です。これらの国々にとって、W杯に出場することは簡単ではありません。しかし、チャンスがある以上は挑戦したいですし、いつか監督としてW杯出場を実現したい。そんなことを考えると最高にワクワクするんです。



会社概要 - company profile

企業名:アンコールタイガーFC

事業内容:カンボジアのシェムリアップを本拠地とするカンボジア・リーグ1部のサッカークラブ

コーポレートサイト:https://angkor-tiger.com/ja/

インタビューを終えて
水野 歩

水野 歩

株式会社ディプコア 代表取締役CEO

自身もサッカー経験者であり、1993年のJリーグ開幕をリアルタイムで見ていた私にとって、選手として、そして監督としてサッカーに関わり続ける安永氏へのインタビューは、感慨深いものでした。 特に印象に残ったのが、同級生であり同期入団でもあった松田直樹選手の話です。松田選手について伺った際、安永氏は「彼は彼の人生を短くとも太く、全力で生きたと思う。だから私も、自分の人生を思い切り生きていきたい」と語っていました。 スペイン挑戦や海外での監督就任といった一見困難な選択の背景にあったのは、「経験してみたい」「ワクワクする」という動機に正直である姿勢でした。通訳なしで海外チームの監督に挑むことさえ、安永氏にとっては“怖さ”ではなく“成長の入口”だったと思います。 キャリアの正解が見えにくい時代だからこそ、「何が得か」より先に、「自分は何に動かされるのか」を問い直す。安永氏の言葉と姿勢は、そんなシンプルで強い動機を思い出させてくれたと思います。

※本記事の内容はすべてインタビュー当時のものであり、現在とは異なる場合があります。 予めご了承ください。

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